徐福は今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられています。 徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われています。 徐福の渡海は、中国の有名な歴史書である『史記』にも記されています。1982年、中国の江蘇省連雲港市かん楡(かんゆい)県において徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いたりりしい徐福の座像がまつられています。 一方、始皇帝が不老不死の霊薬を探しだそうと躍起になり、各地をたずねたあげく、方士徐福に出会ったのが徐郷県(現・山東省龍口市)といわれています。 現中国においても徐福ゆかりの地がクローズアップされており、その研究も活発に行われています。 日本でも徐福渡来の伝承地がいくつかあり、古くから地域伝承を育み、様々な文化が形づくられてきました。 特に熊野地域には徐福渡来の地として数々の伝承・史跡が残り、鎌倉時代には文献に出てきます。新宮駅から東にわずか100mのところに「徐福の墓」があり、蓬莱山南麓の阿須賀神社には「徐福の宮」もあります。 平成6年8月、「徐福の墓」を中心に極彩色豊かな中国風楼門を配した整備を行い、「徐福公園」としてオープンしました。 ※ 徐福公園内には「徐福の墓」をはじめ8カ所の見どころがあります。 ⇒ 園内紹介 ※ その他に新宮市内には徐福に関係の深い史跡等が5カ所あります。 ⇒ 新宮の徐福関連地 ※ 天台烏薬に関する詳細情報はこちらの新宮市HPをご覧ください。 ⇒ 市の木_天台烏薬 徐福渡来の画 (江戸時代) 幕末に編さんされた『西国三十三ヶ所名所図会』の「新宮湊」の項に、徐福渡来の挿絵が描かれています。絵師は松川半山です。 中国風の黒い大きな船で上陸したばかりの徐福が重臣や童男童女らを従え、多くの宝物などを荷降ろししている場面です。 Copyright (C)一般財団法人新宮徐福協会, All Rights Reserved.
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